裏Kanon あゆ編 1月28日〜エピローグ

気がつくと、窓からはまぶしいくらいの光が差し込んでいた。

朝。

朝と呼ばれる時刻。

祐一「・・・・・・・」

頭がずきずきと痛んだ。

嫌な痛みだった。

祐一「・・・・・・・・」

それでも、懸命に体を動かして起きあがる。

指先に、痛みがあった。

祐一「・・・・・・・」

鋭い痛み。

見ると、まだかすかに血がにじんでいる。

そして、蘇る昨日の記憶。

・・・煙幕張られただけじゃん。


授業が終わると、俺はすぐに席を立った。

6時間の授業が、今日ほど辛く感じたことは無かった。

まだ、頭が痛い。

名雪「・・・大丈夫、祐一?」

同じように帰り支度を始めていた名雪が、心配そうに声をかける。

祐一「俺は、大丈夫だ」

名雪「・・・それなら、いいけど」

複雑な表情だった。

祐一「じゃあ、俺、先に帰るから」

名雪「うん」

鞄を持って、教室を出る。

そして、いつものようにあの場所へ向かう。

 

オレンジ色の光に包まれた街。

ガラスに反射した光が、より一層、赤を引き立てていた。

『あ・・・。祐一君っ』

パタパタと羽を揺らしながら、笑顔で駆け寄ってくる少女の姿は、そこにはなかった。

『もう、会えないと思うんだ・・・』

その言葉の意味が、目の前にあった。

誰もいないベンチ。

人通りは多かった。

だけど、その中に、捜し求めている人の姿はなかった。

祐一「・・・・・・・」

雪の積もったベンチに座って、ただ夕焼け空を眺める。

あゆも、こんな気持ちだったのだろうか・・・

いつ来るかも、本当に来てくれるかも分からない人を、ただじっと待っている・・・・。

夕焼けの赤が息を潜めて、代わりに夜のとばりが降りる。

あれだけあった人通りも、今はほとんどなかった。

そして、俺はあゆのことを何も知らなかったという事実に気づく。

あゆの住んでいる場所も、電話番号も・・・。

いくつもの偶然だけで、あゆとは出会ってきた。

だから、あゆとはいつでも会えると思っていた。

毎日会えると思っていた。

だけど・・・・・・。

今、目の前にある風景が、現実だった。


夕飯を断って、俺は一人部屋に戻っていた。

指の痛みは消えても、

頭痛はまだ治まらない。

ふと、部屋の片隅に目をやる。

あゆの忘れ物。

不発弾だけが入ったリュックサック・・・・

・・・って待て。前回、切干大根が入ってなかったか?


・・・・・。

女の子「・・・祐一君」

女の子「真っ暗だよ・・・」

怯えたような表情で、体を寄せる。

女の子「・・・ボク、怖いよ・・・」

小さな手で、涙を拭う。

俺は、その女の子の頭を撫でる。

女の子「ありがとう・・・・」

その手も、小さかった。

祐一「すっかり暗くなっちゃったな・・・」

あゆ「・・・うぐぅ・・・」

それでなくても薄暗い森の中には、夜になると当然のように真っ暗だった。

あゆ「・・・怖いよ・・・」

祐一「大丈夫だって、俺がついてるだろ?」

あゆ「・・・うん・・・」

祐一「大丈夫だって、森の外に出たら街灯だってあるんだから」

そうは言ったものの、俺だって怖くないわけではなかった。

ついさっきまでは赤い光に照らされていたその場所は、本当にあっという間に夜の風景に変わっていた。

闇に覆われた森は、まるで帰り道を閉ざしているようだった。

祐一「とにかく、この森から出るぞ」

あゆ「・・・うん・・・」

力なく頷く。

あゆ「・・・でも、森じゃないよ・・・」

あゆ「・・・日本赤軍本部だよ・・・

祐一「学校だろっ!


あゆ「・・・祐一君・・・ここ、どこ?」

祐一「とりあえず、森の外だな」

あゆ「ボク・・・こんな場所知らないよ・・・」

祐一「俺だって知らない」

あゆ「・・・・」

祐一「大丈夫だって、森からでさえすれば、こっちのもんだ」

あゆ「・・・うん・・・」

頷くあゆを促して、舗装された道を歩く。

祐一「こんな場所もあったんだな・・・」

散歩するには良さそうな場所だった。

もちろん、昼間に限るけど。

あゆ「・・・あ」

あゆが声を上げて、立ち止まる。

あゆ「今、何か光ったよ?」

あゆは、茂みを見ていた。

祐一「何か落ちてるのか?」

あゆ「うん」

その場所に、あゆが近づく。

あゆ「・・・オリハルコン

あゆが手に持ったそれは、口の大きな、少し変わった形のオリハルコンだった

祐一「んなもんあるかっ!」

あゆ「うん。本当はガラスの瓶・・・」

たまに、お菓子がこんな瓶に入って売られているのを見たことがある。

たぶん、これも同じものだろう。

あゆ「・・・そうだ」

あゆが何かを思いついたように、頷く。

あゆ「祐一君、タイムカプセルって知ってる?」

祐一「聞いたことはあるけど・・・」

あゆ「思い出の品とか、未来への自分の手紙なんかを中に入れて、土に埋めるんだよ」

祐一「何のために?」

あゆ「数年後の自分に送るために」

祐一「つまり、埋めてから何年か経ったら、自分で掘り起こすわけだ」

あゆ「うん。そういうこと」

祐一「で、そのタイムカプセルがどうしたんだ?」

あゆ「これ、使えないかな?」

そう言って、拾った瓶を取り出す。

祐一「瓶はいいとして、何を入れるんだ?」

あゆ「これだよ」

それは、天使の人形だった。

あゆ「ダメかな?」

祐一「でも、まだひとつ願いが残ってるだろ?」

あゆ「ボクは、二つ叶えてもらったから、充分だよ」

あゆ「残りのひとつは、未来の自分・・・」

あゆ「もしかしたら、他の誰かのために・・・送ってあげたいんだよ」

祐一「でも、願いを叶えるのは俺なんだろ?」

あゆ「頑張ってね、祐一君」

闇の中で、あゆが穏やかに笑う。

祐一「分かった。俺は構わない」

あゆ「・・・・うん。ありがとう、祐一君」

そして俺達は、落ちていたドリルを使って、地面を掘った。

って待て!なんでドリルが落ちてるんだっ!

あゆ「本当はもっと深く掘らないとダメなんだけど・・・」

ガガガガガガガガッ!

祐一「おいっ!なんでお前、ドリルを使いこなしてるんだっ!」


祐一「しかし、目印も無いのに見つかるかな・・・」

上に土を被せながら、あゆのほうを見る。

あゆ「大丈夫。きっと、見つかるよ」

あゆ「この人形を必要とする人がいれば、必ず・・・」

結局、見知った商店街に出るには、もうしばらく時間がかかった。

思っていたより時間が遅くなかったことが、救いだった。

あゆ「・・・ボク、ここでいいよ」

祐一「本当にひとりで大丈夫か?」

あゆ「・・・・うん」

祐一「じゃあ、ここでお別れだ」

あゆ「明日・・・まだ、会えるよね?」

祐一「そうだな、午前中だったら大丈夫だ」

あゆ「・・・それなら、明日の朝は、学校で待ってるよ」

祐一「学校?」

あゆ「うん。学校」

あゆ「転校していく祐一君のために、お別れ会だよ」

祐一「そうだな。だったら、明日の朝は俺達の学校で会おうな」

あゆ「うん。指きり」

祐一「学校行くのに、わざわざ指切りなんてしないぞ、普通は」

あゆ「でも、指切り」

祐一「そうだな・・・・・」

小さな指に、もっと小さな指が絡む。

それは温かくて・・・柔らかくて・・・

指が離れた後もずっと・・・。

思い出の中に、刻み込まれていた・・・。


チャイムが鳴って、全ての授業が終了した。

名雪「祐一、放課後だよ」

祐一「そうだな」

名雪「やっぱり、元気無い・・・」

祐一「俺は、いつだって元気が無いんだ」

名雪「うーん、そんな事無いと思うけど・・・」

祐一「名雪、今日も部活か?」

名雪「今日はお休み」

祐一「お。珍しいな」

名雪「だから、一緒に帰ろうよ」

祐一「・・・・・」

名雪「今日も、用事?」

祐一「名雪、悪いんだけど、ちょっと付き合ってもらえるか?」

名雪「商店街?」

祐一「そうだな。少しだけは商店街だ」

名雪「・・・よく分からないけど」

祐一「どうしても、人手が必要なんだ」

名雪「うん。わたしは構わないけど・・・ふたりで大丈夫なの?」

祐一「できれば、人数は多いに越したことは無い」

名雪「だったら・・・」

 

祐一「実は、探して欲しいものがあるんだ」

名雪「ここにあるの?」

祐一「ああ」

香里「それで、あたし達は何を探せばいいの?」

香里が当然の疑問を口にする。

祐一「小さな瓶だ。中に人形が入っている」

祐一「この場所の、どこかに埋まっているんだ」

名雪「・・・埋まってるの?」

祐一「たぶん、どれかの木の根元だと思う」

北川「・・・どれか、って」

北川が、呆然と辺りを見渡す。

北川「木が何本あると思ってるんだ」

香里「それは、絶対にどこかにあるの?」

祐一「間違い無い」

香里「・・・分かったわ。やれるだけやってみる」

北川「ふぅ・・・仕方ないな・・・」

香里「あたしはこっちを探すから。北川君、反対側をお願い」

北川「OK」

祐一「・・・ありがとう」

香里「大切なものなんでしょ?あなたの表情を見ていたら分かるわよ」

北川「どうせ暇だったしな」

商店街で買った道具を持って、北川と香里が作業に取り掛かる。

名雪「わたしたちも」

祐一「そうだな」

4人いても、それは気の遠くなるような作業だった。

木の根元に、針金を差し込んで、手応えがあれば掘り返す。

ひたすらその繰り返しだった。

夕方を通り越して、辺りは既に闇の中だった。

それでもまだ、目的のものは見つからなかった。

北川「こっちにもなかったぞ」

香里「こっちも同じ」

名雪「わたし、眠い」

祐一「どうして見つからないんだ・・・」

闇に後押しされるように、気ばかりが焦る。

名雪「もう一度探してみようよ」

香里「そうね、見落としがあったって言う可能性もあるわね」

北川「なぁ、相沢。本当にあるのか?」

祐一「あるはずなんだ」

香里「誰かが掘り起こしたっていう可能性は?」

祐一「それは、あり得るけど・・・」

香里「でも、まだある可能性も残っているのよね?」

香里の問いに、頷いて答える。

香里「だったら、探しましょうか」

北川「そうだな、話をしてても見つかるわけないもんな」

名雪「ふぁいとっ、だよ」

祐一「・・・ありがとう」

そして、作業が再開される。

やがて・・・。

北川「おいっ!これじゃないのか!」

北川が、声を張り上げる。

北川「ほら、一応瓶に入ってるし」

香里「でも・・・ひどいわね」

北川に渡されたそれは、瓶のふたが割れていた。

そして、泥にまみれた瓶の中からは、小さな人形が出てきた。

それは、手のひらに乗るような、小さな天使の人形だった。

しかし、泥まみれのそれは、羽が片方もげて、頭に乗っていたはずの輪っかも、取れてなくなっていた。

香里「これでいいの?」

祐一「ああ、間違い無い」

7年前に、俺がゲーセンで4000円ぐらいつぎ込んで手に入れた人形だった。

どんな願いでもかなう人形・・・

少女の願いを、二つ叶えた人形・・・。

しかし、その姿は無残なものだった。

名雪「・・・祐一、わたしが直そうか?」

祐一「できるのか?」

名雪「うん。殆ど作りなおしってことになると思うけど・・・」

祐一「だったら、頼む」

名雪「うん。頼まれたよ」

香里「じゃ、あたしはそろそろ帰るわね」

北川「俺も帰るぞ」

祐一「本当にありがとうな、二人とも」

香里「いつかこの埋め合わせはしてもらうけど」

祐一「そうだな、約束する」

香里「・・・・相沢君の、体でね

ニヤリ

祐一「・・・・・・」

そこまで約束できねぇ。


・・・・・・。

夢。

・・・・・・。

夢を見ていた。

・・・・・・。

それは、昔の夢・・・。

7年前の夢・・・。

あゆと出会って・・・。

そして、思い出に深い悲しみを刻み込んだ日の夢・・・。

閉ざしていた記憶・・・。

忘れていた風景が、今、そこにあった・・・。

 

祐一「あゆのやつ、きっと怒ってるだろうな・・・」

ため息をつきながら、それでも全速力で街の中を走る。

家を出るときに時間を確認したが、すでに走って間に合うような時間帯ではなかった。

祐一「・・・遅刻、ってことになるのかな」

あゆとの約束の場所。

『それなら、明日の朝は、学校で待ってるよ』

ふたりだけの場所。

そこは、ふたりだけの学校でもあった。

偶然、この街で出会った。

そして、些細なきっかけで、毎日あの夕焼けのベンチで会うことになった。

あゆと会うことが、話をすることが、俺にとって本当にかけがえのない時間だった。

そして、あゆの笑顔が、何よりも嬉しかった。

でも・・・・。

そんな時間も、今日で終わる。

俺にとってこの街は、雪の舞う間だけの、つかの間の思い出ででしかないから。

俺の住む街は、遠くにあるから。

だから、少しでも沢山の思い出を、残しておきたかった。

あゆとの思い出。

あゆの笑顔。

少しでも、長い時間・・・。

目の前に、細い道があった。

周りを木々に囲まれた、寂しい場所。

雪を積もらせた木々が、森を形作る。

祐一「・・・・・」

約束の場所・・・。

この奥に、あゆがいる・・・。

きっと、頬を膨らませて、拗ねた表情で待っている。

そして、俺の姿を見つけると、非難するように、それでも笑顔を覗かせながら・・・

『祐一君、遅刻だよっ』

・・・と、不発弾を投げるのだ。

祐一「・・・・・投げねぇって」


あゆ「祐一君、遅刻だよっ」

あゆの拗ねたような声は、空から聞こえてきた。

森の開けた場所の、その中心にある、大きな木。

その枝の上に、あゆの姿があった。

いつものように、ちょこんと枝に座って、街の風景を眺めていた。

だけど・・・。

その時、風が吹いた。

木々を揺らす、強い風だった。

ただ、それだけだった。

あゆ「祐一く・・・」

その瞬間、すべてが凍りついていた。

風の音は聞こえなくなり、耳鳴りするような静寂が辺りを包む。

風景はすべてモノクロに変わって、白い雪がより一層白く見えた。

コマ送りのビデオのように、あゆの小さな体が舞っていた。

まるで、地面に向かって降り注ぐ、一粒の雪のように・・・。

そして、雪が地面に辿り着く。

ごとっ・・・。

音がした。

まるで、重たい石を地面に落とした時のような低くて鈍い音。

それは、雪ではなかった。

地面に横たわるものは、少女の体。

枝に積もっていた雪が、ぱらぱらと少女の体に舞い落ちる。

少女は動かない。

少女は眠っていた。

雪を枕にするように、仰向けに、手足を投げ出して眠っていた。

ついさっきまであれだけ元気だったのに、今は穏やかに眠っている。

木霊のように響いていた少女の声も、今は聞こえない。

耳鳴りするような静寂の中で、あゆが雪のベッドで眠っている。

ただ、それだけ。

赤い、雪の上で。

夕焼けに染まる雲のように、

真っ白だった雪が、赤に変わる・・・。

赤。

白黒だったはずの風景が、赤一色に染まってゆく・・・。

その時。

俺は、耳鳴りの中で、微かな声を聞いた。

少女の声。

苦しそうな声。

俺を呼ぶ声。

その瞬間、凍った時間が動き出した。

祐一「あゆっ!」

雪を蹴って、横たわる少女の元に駆け寄る。

足にまとわり付く不快な雪を払いのけて、少しでも早く、あゆの元へ。

あゆ「・・・祐一・・・くん・・・」

今度ははっきりと、その声を聞くことが出来た。

赤い雪の上で、微動だにしない少女。

その体を、抱き起こす。

あゆ「・・・祐一・・・くん・・・」

涙混じりのような、聞き取りにくい声。

それこそ、まるで安らかな寝言のように・・・。

あゆの体が、微かに動く。

祐一「喋るな!今、病院に連れてってやるから!」

あゆ「痛いよ・・・すごく・・・」

祐一「分かったから、だから喋るな!」

あゆ「あはは・・・落ちちゃったよ・・・」

苦しそうに呟いたあゆの表情は、笑顔だった。

あゆ「ボク・・・木登り得意だったのに・・・」

少女の閉じた瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。

あゆ「でもね、今は全然痛くないよ・・・」

白から赤へ。

雪の絨毯が染まってゆく・・・

あゆ「ボク・・・どうなるのかな」

祐一「痛くないんだったら、絶対に大丈夫だ!」

あゆ「・・・うん・・・」

頷くように、まつげが微かに揺れる。

あゆ「・・・あれ・・・」

あゆ「・・・あはは・・・」

あゆ「・・・体・・・動かないよ・・・」

祐一「俺が、連れてってやるから!」

祐一「だから、動かなくたっていいから!」

あゆ「・・・でも・・・動けないと・・・遊べないね・・・」

涌き出る水のように、伏せたまつげの先から透明な涙がにじみ出ていた。

あゆ「・・・祐一君・・・」

あゆ「・・・また・・・ボクと遊んでくれる・・・?」

祐一「・・・」

返事をしたいのに、頷きたいのに、どうしても言葉が出てこない。

喉の奥に何かが詰まったように・・・。

たった一言が、どうしても出なかった。

だから、俺はあゆの小さな手を握った。

昨日と同じ、柔らかくて温かな手は、力なく垂れ下がっていた。

あゆ「・・・嬉しいよ・・・」

また、まつげが微かに揺れる。

あゆ「・・・約束・・・してくれる・・・?」

握った手に、力を込める。

あゆ「・・・だったら・・・指切り・・・」

そう言って、いつものように笑っていた。

あゆ「・・・えっと・・・」

その笑顔が、僅かに歪む。

あゆ「あはは・・・手が動かないよ・・・」

あゆ「動かないと、指切り出来ないね・・・」

あゆ「ボク・・・馬鹿だよね・・・」

にじんだ涙が、ゆっくりと頬を伝う。

俺は、強引なぐらい、あゆの手を握り締めて、

そして、小さな小指に自分の指を絡ませる。

祐一「ほら、これで指切りだ・・・」

祐一「・・・ちゃんと・・・指切りしたぞ、あゆ・・・」

祐一「・・・約束だから・・・」

あゆ「うん・・・」

あゆ「・・・約束、だよ」

それが精一杯のように、あゆが笑顔を覗かせる。

祐一「あとは、一緒に指を切るだけだ・・・」

あゆ「・・・」

祐一「ほら、どうしたんだ・・・」

あゆ「・・・・・」

祐一「指切らないと、指切りにならないだろ・・・」

あゆ「・・・・・・」

祐一「切るんだよ、指を・・・」

あゆ「・・・・・」

祐一「一緒に・・・切らないと・・・」

あゆ「・・・・・」

祐一「・・・指切りに・・・ならない・・・」

あゆ「・・・・・」

祐一「・・・あゆ・・・?」

あゆの手を握ったまま・・・。

俺の、あゆの呼ぶ声だけが、何度も何度も木霊のように響いていた・・・。

だけど、少女は動かなくて・・・。

もう、俺の名前を呼んでくれることも無くて・・・。

ずっと、ずっと・・・。

俺は、あゆの指を離すことが出来なかった。

雪の上に、ぽつんと取り残されたプレゼントの包み。

渡せなかったプレゼント・・・。

そして、それが俺の初恋だったということに気づく。

だけど、気づいた時には、もう、決して叶えられることの無い思いだった。

俺は、ただ・・・。

赤い雪の上で、泣くことしか出来なかった・・・。


「なぁ、あゆ」

「うん?」

「ほら、これ見てみろ」

「・・・なにこれ?プレゼントみたいな包みだね」

「みたい、じゃない。間違いなくプレゼントだ」

「あ、そうなんだ。誰のプレゼント?」

「別に・・・誰のってわけでもないけど」

「ふーん・・・・」

「でも、もしよかったらお前にやる」

「え?ボクが貰っていいの?ホントに?」

「どうせ女物だから、俺が持ってても仕方が無いし」

「ホントにホントにボクが貰ってもいいんだよね?」

「要らないのなら、捨てる」

「全然要らなくないよ。すっごく嬉しいよ」

「だったら、大人しく受け取れ」

「ね?開けてもいいの?」

「お前にあげたんだから、好きにしてくれ」

「うんっ」

「・・・・」

あっ・・・これってイナゴの佃煮だよね?

「まあな・・・・って待てっ!そんなもの入ってないだろっ!」

「冗談だよ。カチューシャが入ってたよ」

「そ、そうか(ホントに佃煮だったらどうしようかと思ったぞ・・・)」

「ありがとう、祐一君」

「これでも高かったんだからな」

「うんっ、そうだよねっ。あとで返せって言われても返さないからねっ」

「俺だって、返すって言われても受け取らないからな」

「そうだっ!今度祐一君に会う時は、これつけて行くね」

「ああ、約束だぞ」

「うんっ、約束」

 

それは、幻だった・・・。

ひとりの男の子が、初恋の女の子に、プレゼントを渡して・・・。

女の子が満面の笑みで受け取るという・・・。

そんな、悲しい幻・・・。

だけど、その時の俺は、現実より幻を選んだ。

悲しい現実を心の奥に押しこめて、安らいでいることのできる幻を選んだ。

弱い心が潰れないように・・・。

思い出を、傷つけないために・・・。


目が、覚めていた・・・。

そこは、雪の森ではなく、自分のベッドの上だった・・・。

今、自分が見た記憶の意味・・・。

空想の夢と現実の記憶・・・。

今見た記憶は、間違いなく俺の中の思い出だった・・・。

今まで・・・。

今の今まで、忘れていた記憶・・・。

だかそれは、微かに開いた扉からとめどなく溢れ出て・・・。

今まで忘れていたことが嘘のように・・・。

現実に起こった出来事として、間違いなく俺の中に存在していた。

祐一「・・・・・・」

胸をかきむしりたくなるような焦燥感・・・。

俺はただ、安らかな日々を過ごしたかった・・・。

いつまでも、思い出は安らかな場所でありつづけて欲しかった・・・。

思い出は、誰にとっても安心できる場所だったから・・・。

だけど、俺はその幻を手放した。

ずっと閉ざしていた記憶の扉を開いた。

扉の向こうにあったものは、真実だけ。

目の前の現実。

俺の好きだった人は・・・。

月宮あゆは・・・。

もう、この世には存在しない。


コン、コン・・・。

張り詰めた空気を揺らすように、、ドアがノックされる・・・。

名雪「・・・祐一、起きてる?」

いとこの声。

祐一「ああ、起きてる」

名雪「開けていい?」

祐一「ああ」

カチャッ、とドアノブが回って、扉がゆっくりと開く。

名雪「祐一、おはよう」

祐一「どうしたんだ?今日はずいぶんと早いな」

名雪「祐一が遅すぎるんだよ」

名雪「もう、学校もとっくに終わったよ」

名雪の言葉に驚いて、時計を見る。

時刻は、すでに夕方に近かった。

名雪「朝も起こしたけど、祐一、起きなかったから」

祐一「いや、別にいい」

祐一「それで、何の用だ?」

名雪「これ、修理できたから持ってきたんだよ」

それは、昨日、名雪に渡した思い出の人形だった。

名雪「結構、苦労したよ」

そう言って、人形を手渡す。

名雪「どうかな?」

その人形は、見違えるほどに綺麗になっていた。

まるで、7年前に時間が戻ったかのように・・・。

名雪「ほとんどが、サイボーグ化しちゃってけど、いいよね?

祐一「上出来だ・・・って、ちょっと待てっ!サイボーグって何!?」

名雪「ロケットパンチが飛ばせるようになってるんだよ。やったね

祐一「やってねぇっ!」


俺は、服を着替えて部屋を出た。

手には。あいつの忘れ物のリュックを持って。

そして、そのリュックのホルダーには、天使の人形が揺れていた。

森を抜けて、この場所に来た時、すでに辺りは夕焼けに包まれていた。

ここは、あゆとの思い出の場所。

楽しいことも、悲しいこともあった場所。

雪の感触を感じながら、広場の中央に向かう。

そこには、大きな木があった。

だけど今は、その名残を切り株として残しているのみだった。

切り株に積もった雪が、真っ赤に染まっていた。

全てが赤に覆われる世界で、俺は一人で立っていた。

7年前の約束を守るために。

俺は今、学校にいた。

再会するときは、学校で・・・。

そんな遠い日の記憶が蘇る。

俺は切り株の雪を払いのけて、その上に座った。

真っ赤な空を見上げて、ただじっと待つ。

たったふたりの生徒。

その、もう一人の姿を、俺は待っていた。

夕焼けの赤が通り過ぎて、やがて夜が来る。

風に揺れる木々のざわめきを遠くに聞きながら、時間の流れる音を近くに感じながら・・・。

すでに、この世には存在しない人を、待ちつづける。

これ以上、滑稽なことは無かった。

自らの行動を、馬鹿らしく思いながらも、それでもこの場所を離れることはできなかった。

片隅には、白い羽の生えたリュックがあった。

あゆは、確かに存在していた。

たとえそれが、どんな奇跡の上にあったとしても、俺はこの街であゆと再会した。

それは、朝靄の通学路。

偶然出会った少女と一緒に、学校への道をただ笑顔で歩いていた。

それは、夕陽のさす駅前。

赤く染まる場所で、ベンチに座る少女が顔を上げて、遅いといって微笑んでいた。

それは、夕暮れの商店街。

たい焼きをほおばる少女と共に、他愛ない話に花をさかせていた。

それは、真夜中の遊歩道。

未来に託された希望を求めて、少女が最後にすがった場所。

どれも、失ってみて初めて気づく、かけがえのない瞬間だった。

祐一「・・・・・」

もう一度、夜空を見上げる。

祐一「・・・指切り、したよな?」

だけど・・・。

やがて、一日が過ぎようとしていた。

今日と言う日もまた、思い出の中に還ってゆく・・・。


そして、目が覚めた。

祐一「・・・・・・」

頭が重い。

それこそ、頭に鉛でも入っているかのように・・・。

ぼやけていた昨日の記憶が蘇る。

祐一「・・・あのまま、眠っていたのか」

空は青かった。

そして、まぶしかった。

どれだけの時間が経ったかは分からない。

太陽が斜めにあるので、まだ朝の早い時間なのかもしれない。

ふと見ると、コートにはうっすらと雪が積もっていた。

寝ている間に降ったのか、それとも枝に積もった雪が風で運ばれたのか・・・。

祐一「・・・俺は、まだこの場所にいるんだな」

自問するように、呟く。

何度問いかけても、答えはひとつしか帰ってこない。

また、時間だけが流れる。

一度登った太陽が、また傾いていた。

地面についた手が、じゃりっと土を擦る。

雪の感触。

土の感触。そして、枯れた葉の感触。

泥にまみれた手でコートに積もった雪を払いのける。

祐一「・・・この街に引っ越してきた時も、同じような目にあったよな」

ひとりで吐き出した言葉は、どこまでも白く視界を覆う。

祐一「もっとも、あの時はベンチだったけどな・・・」

雪解けの水を吸いこみ、湿った切り株に座りながら、夕焼け空を眺める。

コートの奥まで染み込んだ雪の冷たさに顔をしかめながら、俺はまだこの場所にいた。

来るのかどうかすら分からない、たったひとりの人を待ちつづける。

心の奥の、自分でも気づかない場所に存在する景色があった。

思い出の奥底から涙腺を刺激する赤い風景。

女の子が立っていた。

深い悲しみを背負った女の子が立っていた。

夕暮れの街で、

いつもの場所で、

ずっとずっと・・・。

『やっぱり待ってた人が来てくれることが一番嬉しいよ』

『それだけで、今まで待ってて本当に良かったって思えるもん』

本当に、そうだな・・・。

あいつは、たったひとりで7年間も待っていたんだから・・・。

『祐一君がボクのことを好きでいてくれているのなら、ボクはずっと祐一君のことが好きでいられるんだと思う』

祐一「・・・俺は、今でもお前のことを好きだぞ」

声「ボクもだよ、祐一君」

祐一「・・・だったら・・・どうして、もう会えないなんて・・・言ったんだ・・・」

声「もう・・・時間が無いから・・・」

声「今日は、お別れを言いに来たんだよ・・・」

祐一「俺は、忘れ物を届けに来たんだ」

声「・・・見つけて、くれたんだね」

祐一「苦労したぞ・・・本当に」

声「・・・ありがとう・・・」

あゆ「・・・祐一君」

祐一「遅刻だぞ、あゆ」

あゆ「今日は、日曜日だよ」

赤く染まったあゆが、微笑む。

祐一「それもそうだな」

あゆ「うん」

祐一「でも、また会えたな」

あゆ「うん・・・」

あゆ「だって、腐れ縁だもん」

あゆの髪が、風になびいていた。

その表情は穏やかで・・・。

悲しいくらい穏やかで・・・。

祐一「本当に、これでお別れなのか・・・」

あゆ「・・・うん」

祐一「ずっと、この街にいられることは出来ないのか?」

あゆ「・・・うん」

祐一「そうか・・・」

あゆ「・・・うん」

祐一「だったら、せめて、最後の願いを言ってからにしてくれ」

あゆ「・・・・・」

祐一「約束したからな。3つだけ願いを叶えてくれるって・・・」

祐一「だから、せめて・・・」

祐一「俺に、最後の願いを叶えさせてくれ・・・」

あゆ「そう・・・だね・・・」

あゆが、人形を抱きしめて、僅かに悲しそうな表情を見せる。

だけど、それも一瞬のことだった。

あゆ「お待たせしましたっ」

あゆの表情が、いつも通りの、本当にいつも通りの笑顔に変わる。

あゆ「それでは、ボクの最後のお願いですっ」

あゆ「・・・祐一君・・・」

あゆ「・・・ボクのこと・・・」

あゆ「・・・ボクのこと・・・忘れてください」

あゆ「ボクなんて、最初からいなかったんだって・・・」

あゆ「そう・・・思ってください・・・」

悲痛な笑顔が崩れていた。

溢れる涙が、頬を伝って流れ落ちる。

あゆ「ボクのこと・・・うぐぅ・・・忘・・・れて・・・」

祐一「本当に・・・それでいいのか?」

祐一「本当にあゆの願いは俺に忘れてもらうことなのか?」

あゆ「だって・・・」

あゆ「ボク・・・もうお願いなんて無いもんっ」

あゆ「・・・本当は、もう二度と投げられないはずだった、不発弾・・・

あゆ「いっぱい投げられたもん・・・

祐一「・・・投げなくていいって・・・」


あゆ「・・・祐一・・・君?」

あゆの持っていたリュックが、雪の上に落ちる。

あゆ「・・・・・」

俺は、あゆの小さな体を抱きしめていた。

悲しい思い出を背負って・・・。

自分の運命を真正面から見据えて・・・。

そして、最も辛い選択を選んだ少女・・・。

あゆ「・・・祐一君・・・」

髪を撫でるように、頭に手を置く。

あゆ「・・・ボク・・・もう子供じゃないよ・・・」

祐一「お前は子供だ」

あゆ「・・・そんなこと・・・ないもん・・・」

祐一「ひとりで先走って、周りに迷惑ばっかかけてるだろ」

あゆ「・・・うぐぅ・・・」

祐一「そのくせ、自分で全部抱え込もうとする・・・」

祐一「その、小さな体に、全部・・・」

あゆの体を、一際強く抱き寄せる。

あゆ「・・・祐一・・・君・・・」

祐一「お前は、ひとりぼっちなんかじゃないんだ」

あゆ「・・・祐一君・・・」

あゆ「・・・ボク・・・」

すぐ近くで聞こえるあゆの声。

涙混じりの小さな声。

あゆ「ホントは・・・」

あゆ「ボク、ホントは・・・」

あゆ「もう一回・・・祐一君と、たい焼き食べたいよ・・・」

声が、嗚咽に変わっていた。

あゆ「もっと、祐一君と一緒にいたいよ・・・」

あゆ「こんなお願い・・・いじわる、かな?」

あゆ「ボク、いじわる、かな・・・」

俺は、返事の代わりに、あゆの体をぎゅっと抱きしめた。

それこそ、小さな体が、壊れるぐらいに・・・。

あゆ「・・・祐一君・・・」

あゆ「ボクの体、まだあったかいかな・・・」

祐一「当たり前だ」

あゆ「・・・良かった」

ふっと、体から温もりが消える。

まるで、最初から何も存在していなかったかのように・・・。

その場所には、誰の姿も無かった・・・。

リュックも・・・。

人形も・・・。

そして、最後に残った温もりさえも、冷たい風に、流されてゆく・・・。

でも・・・。

これだけは言える。

最後のあゆは、間違いなく笑顔だった。

祐一「そうだよな・・・あゆ」


声の消えた雑踏。

顔の無い人が、目の前を行き交う。

誰も、たったひとりでベンチに座っている子供の姿なんか気にも止めない。

人を待っている。

来ないと分かっている人。

もう会えないと分かっている人を・・・。

何年も何年も・・・。

繰り返される夢の中で、

ボクは、ずっと待っていた。

来るはずの無い夜明け。

だけど・・・。


留まることなく、季節は流れていた。

街を覆っていた雪は姿を消し、よどんだ雲からは銀色の雨が落ちていた。

木の枝は新緑の葉を湛え、虹の空にゆらゆらと浮かんでいた。

冬の寒さを、雪の冷たさを忘れそうになるぐらい、あの日々は遠い思い出の彼方だった。

もう、たい焼きって季節でも無くなったな・・・。

ぎしっとベッドを軋ませながら、ゆっくりと体を起こす。

いつからだろう、この部屋に違和感を感じなくなったのは・・・。

この自分の部屋全体が、当たり前に思えてきたのは・・・。

簡単に上着を羽織って、廊下に出る。

名雪「あ・・・」

名雪「おはよう、祐一」

はう〜、とあくびを右手に隠しながら、まだパジャマ姿の名雪が廊下に立っていた。

祐一「もうとっくに昼過ぎてるぞ」

名雪「うん。ちょっと寝坊したよ」

祐一「昨日何時に寝たんだ?」

名雪「9時、かな?」

祐一「よくそんなに寝られるな・・・」

名雪「寝るのは、好きだから」

ぐぅっと、背伸びをして、もう一度あくび。

名雪「ちょっとお腹すいたかな」

祐一「昨日、夕飯食ったっきりだろ?」

さすがに腹だって減る。

あゆ「うん。どんがらがっしゃーんって言ってるよ」

パジャマの上からお腹に手を当て、小さく笑う。

祐一「っておい待て!何だ今の腹の音は!?」

名雪「お腹空いたから・・・」

祐一「空いたってそんな音出るかっ!」


秋子「祐一さん、今朝のニュースで言ってたんですけど、知ってますか?」

世間話を始めるように、いつもの口調で秋子さんが俺に話しかける。

祐一「なんですか?」

これもいつものように、俺が問い返す。

秋子「昔、この街に立っていた大きな木のこと」

祐一「・・・・・・・え?」

季節が流れていた。

雪解けの水のように、ゆっくりと、ゆっくりと・・・。

秋子「昔・・・その木に登って遊んでいた子供が落ちて・・・」

秋子「同じような事故が起きるといけないからって、切られたんですけど・・・」

秋子「その時に、木の上から落ちた女の子・・・」

凍った思い出、溶けるように・・・。

秋子「7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって・・・」

新しい季節が、動き出すように・・・。

秋子「その女の子の名前が、確か・・・」


流れる風景が好きだった。

だけど、雪に凍りつく水たまりのように、ボクの時間は止まっていた。

この四角い部屋の中で、

季節の無い時間の中で、

ボクは、ずっとひとりぼっちだった。

繰り返し、繰り返し、

夢の中で同じ風景を眺めながら、

明けない夜に身を委ねながら・・・。

だけど・・・。

ゆっくりと、夜が白み始めてきた。

「・・・・・・」

「・・・・・・ふぅ」

そわそわと体をゆすりながら、気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと深呼吸をする。

行き交う人々の流れを上目遣いに見つめながら、慣れない帽子を目深に被る。

「う〜・・・遅いよ」

ぽつりと呟いた息は、すでに白くは無かった。

遅い春が、もうすぐそこまでやって来ていた。

雪を払った街並みが、新しい顔を覗かせる瞬間。

流れる空気が暖かかったという事実を、今まで忘れていたことが不思議なくらい鮮明に思い出すことの出来る季節。

「・・・ふぅ」

もう一度、ゆっくりと深呼吸。

肺の中を満たす、暖かな空気。

屋根の上に微かに残る白い雪も、この数日間の晴天でほとんどが流れ落ちていた。

いいお天気だった。

出かけに見た天気予報でも、この晴天はしばらく続くらしかった。

上を向くと、まぶしいくらいの太陽が降り注ぐ青空が広がり、

下を見ると、影法師がくっきりと床に落ちていた。

「・・・やっぱり。気になる」

かぶり慣れていないせいか、それともサイズを間違ったのか、頭を動かすと帽子がずれてくる。

うしょ、うしょ・・・と、帽子を撫でつけながら元に位置に戻した。

でも、すぐにずれてくる。

「・・・うぐぅ」

なんだか悲しくなってきた。

「よぉ、不審人物」

不意に、ぽんっと背中をたたかれる。

見上げると、いつからいたのか、あの人が目の前に立っていた。

「遅いよっ、遅すぎるよっ」

「悪い。ちょっと遅れた」

「それに、ボクは不審人物じゃないよっ」

本当は真っ先に言いたかった言葉が出てこない。

「どっから見ても不審な人だぞ」

帽子の上に手を置きながら、あの人がいつもの表情で笑っていた。

「どこが・・・?」

「全部」

「うぐぅ・・・そんなことないもん」

「で、どうしたんだ?新手のイメチェンか?」

「・・・違うもん」

「だったらどうしたんだ?」

ぽんぽんと帽子の上から頭を叩く。

「・・・笑わない?」

「絶対に笑わない」

「・・・ホントに笑わない?」

「どんなことがあっても決して笑わないと約束する」

「・・・すごく嘘っぽいけど・・・でも、うん、約束だよ」

「俺は、こう見えても約束は守るほうだ」

「うん・・・実は・・・」

「・・・・・」

「・・・床屋さんで、髪の毛切ってもらったら・・・」

うぐぅ、と視線を地面に向ける。

「・・・いっぱい切られた」

「わはははっ・・・」

まったく遠慮無しに、あの人が大笑いしていた。

「うぐぅ・・・。絶対に笑うと思ったけど、いじわるだよっ」

「というか、その歳で床屋なんか行くからだ」

「だって・・・床屋さんしか行った事無いもん・・・」

「今度、名雪にどっか連れてってもらえ」

「・・・うん・・・そうする」

「しかし、ますます男の子みたいだな」

「違うもん、ボクは女の子だもん」

「悔しかったらあたしって言ってみろ」

「うぐぅ・・・。やっぱり、いじわるだよ」

他愛ないやり取り。

いつもと同じ日常。

大切な時間。

来るはずなんてないと思っていた瞬間。

「・・・それはそうと」

さんざん笑っていたあの人が、改めてボクの顔を覗きこむ。

「帽子とったところ見てみたい」

「絶対に、嫌っ!」

「笑わないから」

「もう信じないもんっ!」

「大丈夫、俺は口が堅いから」

「口が堅くても関係無いよっ!」

「さらに俺は好き嫌いが無いから」

「もっと関係無いよっ!」

「というわけで、帽子とってくれ」

「ぜんっぜん、どういうわけか分からないよっ」

昔と変わらないやり取りが、今のボクには嬉しかった。

「・・・さて、そろそろ行こうか」

「うぐぅ・・・どこに?」

「たい焼き食べに行かないとな」

「もう、あったかくなったから、たい焼きなんて売ってないよ」

「大丈夫。秋子さんが作ってくれるらしいから」

「秋子さん、たい焼き作れるの?だったらボクも作ってみたい!」

「やめとけ、たい焼き以外のものになるのがオチだ」

「そんなことないよっ」

これから練習すれば、きっと料理だって上手になる。

どれくらい時間がかかるか分からないけど、

でも、時間はたくさんあるのだから。

「行くぞっ、あゆっ」

「うんっ」

とまっていた思い出が、ゆっくりと流れ始める・・・。

たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら・・・

 

裏Kanon あゆ編 END

 

裏エピローグ:

あゆ「あ、そうだ。秋子さん達にお土産があるんだよ」

祐一「なんだ?」

あゆ「不発弾(国産)10個

祐一「いるかっ!」

あゆ「そんなことないよっ。もしかしたら、喜んでくれるかもしれないよ」

祐一「絶対に喜ばねぇっ!」

・・・・・・・・・。

秋子「了承

祐一「嘘だああぁぁぁっ!」

 

END


あとがき:

炭物「お、終わった・・・・・・・。長かった闘いに、やっと終止符が・・・」

あゆ「うぐぅ・・・ひどいよ、炭物さん・・・」

炭物「思い起こせば、これを書き始めたのが8ヶ月前・・・」

あゆ「うぐぅ・・・無視しないで・・・」

炭物「良くぞここまでやれたなぁ、オレ。自分で自分を誉めてあげたいです」

あゆ「えいっ!」

ズゴオオオオオオォォォンッ!←不発弾

炭物「ぐはぁっ!?・・・・・」

あゆ「ふぅ・・・、あれ?死んじゃったよ・・・・・・ま、いいか♪」

(あゆ、去る)

(炭物、最後の力を振り絞ってスケッチブックに文字を書く)

『あのね』

『裏Kanon全部終了したの』

『次はAIRのSSでも書くつもりなの』

『でも、ONEも書いてみたいの』

『でも、まだ全キャラ攻略してないの』

『頑張って攻略するの』

『生きてたら』

『では、こんな長い文に耐えてくださって、本当にありがとうございました、なの』

がくっ・・・。

END